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論文1『神道における秘授口伝の一形態』

※ここでは、竹内睦泰が執筆した論文を掲載しています。



古神道本庁統理・第七十三世武内宿禰 竹内睦泰

 『神道における秘授口伝の一形態』(『別冊歴史読本』所収)




■いわゆる『竹内文書』について■



一般に『竹内文書』といえば、竹内巨麿の保持していたという文書・神宝類をさす。



しかし、その内容は古墳時代の人物である武内宿禰が、飛行船に乗って世界一周旅行をしたり、



 紀元0年前後のキリストが、垂仁天皇の時代(三世紀ごろ)に来日したりと、
SF小説としてはおもしろいが、かなり無理がある。

もっとも、まったく原型がなかったわけではない。そこに古史古伝のむずかしさがある。

なぜ作られたか、どのようにして誰が作ったかを判断する際には、その時々の時代を考えながら社会学的なアプローチが必要である。


しかし、竹内巨麿の揚げる系図は、信用出来ない。 生年の年号を西暦に改めると、親よりも先に生まれた子供が何人もいる。



 兄弟関係は系図に記されている通りだろうが、間違いなく親子関係において矛盾がある。どうせならもっとましな系図を作ればいいのにと思ってしまう。

もっとも、巨麿自身は竹内家の血はまったく入っていない。

というのは、巨麿が養子なのは周知の事実だが、 巨麿を養子にした養祖父・下西庄二郎自身も竹内家に養子に入った人である。

 巨麿自身も気が引けたと見えて、別名を『宿根』としており、「竹内宿禰」とは名乗っていない。

どうも、養子というのは劣等感の裏返しなのか、自家の家系を誇る傾向にある。

 南朝天皇を名乗った熊沢寛道も実は養子だった。


この二人に共通する養子と貴種への憧憬の関連性については、いずれ心理学的考察を行いたい。


 会えれば良かったのだが、私の生まれた年に、南朝の養子寛道と竹内家の養子・巨麿は死んだ。

 正統竹内家(正統竹内神道管長職家)は、この南朝および竹内家(竹内宿禰)の正統である。

もちろん巨麿の茨城竹内家とはなんの関係もない。

しかし、正統竹内家に伝わる口伝の内容と『竹内文書』の内容に、ある程度の類似性が見られることから、

 巨麿もしくはその周辺の人物が、正統竹内家口伝を一部知っていた可能性がある。


 正統竹内家の墓守に大伴部真麻呂と宿禰麻呂がいる。

 彼らは桓武天皇の延暦十一年(七九二)に、陸奥国俘囚の身から、祭主の留守を守る宮守兼竹内家の墓守に採用された。

そして、射水郡二上山にある武内宿禰の墓を守るため居住した所が伴郷と呼ばれる地名となったという。


この二人の子孫が代々墓守をしていたのだが、茨城竹内家の先祖に大伴部仲麻呂という人物がいる。

 何か関係があるのかもしれない。


また、福島日吉神社から盗まれた宝物や、斉藤慈教の持ち出した南朝の宝物がなぜか茨城竹内家にあるので、 正統竹内家の墓から盗まれた物をどこかで買い取った可能性がある。


というのは、巨麿は、信者には宇多源氏の庭田大納言の四男と自称しておきながら、 特高の取り調べでは清和源氏の竹内惟治の子孫と名乗る。

のちの巨麿の自伝『デハ話ソウ』でも惟治の子孫と名乗る。


しかし、茨城竹内家の系図には惟治の名前はない。自伝では季治は弟で、時代は南北朝時代になっているが、 正統竹内家の先祖の竹内季治は、安土桃山時代の人物で、織田信長に殺された公卿である。


この人物は重要文化財「久我家文書」にも載っているので、南北朝時代の人物でないことは確かだ。

なお、江戸末期に盗まれた正統竹内家の系図には生没年が入っていないので、時代を間違えた可能性がある。


もちろん、正統竹内家の墓から古文書・神宝類を盗み出した人物は巨麿ではない。

 年齢的に巨麿が盗むことは不可能だし、巨麿は越中国婦負郡から掘り起こしたと言っている。

 正統竹内家では越中国射水郡二上山に埋めていた。謎は深まるばかりだ。


しかし、大正元年の時点で巨麿が『竹内文書』について何も知らなかった可能性は、

 大正元年に出した自分の伝記に一言も竹内宿禰や『竹内文書』が登場しないことからみてきわめて高い。


■正統竹内家について■

正統竹内家に伝わる口伝は、門外不出の極秘口伝であり、一般には非公開であるため、

ごく一部の人々しかその存在を知らないし、内容にいたっては、秘密神道の性質上、

 歴代の武内宿禰とその周辺の長老・参議・蔵人クラスの幹部にしか伝授されていない。

 秘密神道になった理由としては、古神道の秘儀と南朝の血脈を受け伝えていることが大きい。


■神宮の成立■

現在、社殿はないが「幽斎」で祭祀を執行している社に「皇祖之霊皇大神宮」がある。

 口伝によれば、神武四年に神武天皇の詔によって創建された。

この神宮の初代祭主は、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴姫であり、 彼女が事代主命の娘であることから、出雲系神道の口伝が伝わっている。


 以下、正統竹内家と神宮の歴史について語ろう。

 二代祭主は神八井耳命で皇位を弟を譲って、自らは祭主となった。もっとも、この当時は「統治王」よりも「祭祀王」のほうが上席であったと伝えられる。


 三代祭主は研耳命で、「記紀」では神武天皇の皇子となっているが、実は手研耳命の皇子である。

 父が逆賊の汚名をきたため系図を祖父につなげたらしい。



 以後、天皇の近親者によって祭祀は執行されてきたが、 景行天皇の時代に詔によって、十一代祭主・屋主武雄心命の子孫が、代々祭主を世襲することになった。


■第一世竹内宿禰■

武雄心命の子供が第一世竹内宿禰である。これは武内宿禰や武内宿禰と書くのが正式だが、 鎌倉時代のときより竹内宿禰に書き替えたらしい。

 歴代の祭主が竹内宿禰の霊を受け継ぐ「霊嗣の儀式」を執行するので、祭主の世襲の称号となった。


 「記紀」に載っている武内宿禰は、この第一世から第五世竹内宿禰の実績をつなげたものである。

 以後、第六世が若子宿禰(允恭天皇と同一人物との口伝あり)

 七世が大臣・平群都久宿禰。八世が大臣・平群真鳥宿禰である。

この真鳥の時に、平群氏は自分の家に群臣を招集して政治を行っていた。

しかし、大伴氏の陰謀により失脚する。

この時に、古神道の秘儀以外の歴史についての口伝を漢字で筆録したのは事実らしい。

しかし、御神符など以外は、この時すべて漢字で書かれたため、神代文字で本文が伝わることはありえない。


■竹内家の武術と医術■

平群氏が復権したのは第十三世の平群神手の時で、物部守屋追討の際に将軍として前線で戦った。

その功労で復権して、のち小徳紫冠を授かっている。


この人の武術は第一世・武内宿禰伝来の秘術で、 戦う前に手を塩をつけて清めることから塩手法ともいう。

 古代の相撲の原型らしい。一撃必殺の「武撃ち」という。 青竹を素手で僕ち折り、鎧の上から打撃を与えただけで敵が死ぬほどの秘技をあみだした。


 古代の豪族は、自家独自の神道・歴史・武術・医術を伝来していたそうで、
竹内家にはほかに、医術の「真手法」と「骨法」が伝わっていた。

 骨法は武術ではないのだが、人間の急所を熟知したうえでの技なので殺人にも使われたらしい。



 本来は医術である。竹内家ではのちの豊治のときに分かれた家に、柔術の竹内流宗家がある。

■歴史書編纂■ 

第二十三世の平群子首は、天武朝に開始された『日本書紀』の編集で、臣姓伝承編集を担当した。

 連姓伝承担当は中臣大嶋である。以後、最初のうちは国司、のち代々郡司となったが、

 四十五世の平群清幹の時に、平将門の乱追討の征伐副将軍となった。

 配下に甲賀忍者の祖・諏訪三郎兼家がいた。

 以後、秋田城介・平群利方、鎮守府将軍・平群永盛と続くがその子の頼義が若くして出家したため、再び没落する。

 頼義は僧侶として比叡山の首楞厳院の阿闍梨・光源として大成した。このころ密教関係の口伝が挿入された。


■平群氏から源氏へ■ 

頼義には出家前に子供がいて、その孫の平群義宗の時に男子が絶えたため、 娘を清和天皇八代孫の大内義信に嫁がせて武内宿禰の血を伝えた。


 彼は武蔵守兼守護として善政を施し、将軍・源頼朝より全国の模範とされたが、 孫の伊勢伊賀守護・大内惟信は、承久の乱で後鳥羽上皇方についたため失脚した。

 幸い、子の惟時が宗尊親王の側近となったので復権した。



しかし、それ以後は京都の方で公家として暮らすという変わった経歴だ。

■南朝との関係■

第四十八世・竹内仲治の時に、後醍醐天皇より山城国に築城せよとの綸旨を賜った。これは重要文化財「久我家文書」にも残っている。



この頃から南朝と北朝の両方に仕えることとなるが、かなり貧乏だったらしく「久我家文書」には第五十二世・竹内為治の借用状が残っている。

このころに南北朝は合一したのだが、竹内家では南朝の皇子をかくまっており、南朝より代々従三位を授かっている。

また、北朝からは代々、大膳大夫と近江守を授かっている。


■戦国期の竹内家■

第五十六世武内季治の時に、将軍・足利義輝の執奏により、堂上公卿の席に列した。

これは、妻が義輝の乳母だったらしく、親しい関係にあったためで、 義輝が京都から逃亡するときに、近江が多いのもその関係らしい。

 義輝が死んだ二年後の同じ日に出家した。(2に続く)


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