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論文4この世の寿老人・武内宿禰



 第七十三世武内宿禰 竹内睦泰



 「この世の寿老人・武内宿禰」



 (別冊歴史読本特別増刊「不老不死の超古代史」所収)



■謎の人物・武内宿禰■



武内宿禰といえば,三百歳以上の長寿の記録がある古代最大の謎の人物である。この人物の子孫から蘇我・紀・平群・巨勢・葛城などの大豪族が出ている。もっと研究されていてもおかしくない人物なのだが、三百歳まで生きたという記録によって架空の人物にされたり、蘇我馬子をモデルにして作られた人物であるという説まである。
戦前は何度か紙幣の肖像にもなっていた武内宿禰を、そうたやすく架空の人物にされては困る(子孫もいるのに)。



本稿では歴史学の文献史料では限界がある武内宿禰の実像について、口承伝承をまじえながら民俗学的なアプローチを試みたいと思う。



■武内宿禰の出生



 武内宿禰は第八代天皇・孝元天皇の孫・屋主武雄心命の息子として生まれた。
母は紀州国造の祖・宇豆比古(莵道彦)の妹・山下影媛である。
弟にのち讒言をした味師内宿禰がいるが、この人物の母親は高千那姫で、武雄心命の母と同じである。ということは、味師内宿禰は武内宿禰の弟ではなく叔父である可能性もある。
生まれたのは日本書紀によると成務天皇と同じ日である。そこから逆算すると、景行天皇十三年生まれということになるが、日本書紀の年代には無理があるのであくまでも年代は参考としておく。



 生まれたのは紀伊国である。父の武雄心命が、景行天皇の命令によって阿備の柏原で天神地祇を祭祀していた頃である。



■武内宿禰の業績



 景行天皇二十五年に武内宿禰は北陸・東方諸国の巡察を命じられ、二年後に戻ってくる。そして「東夷の国に日高見の国があります。この人々を蝦夷といいますが豊かでいい土地です。これを取りましょう」と報告した(オイオイ)。
結局、日本武尊が吉備武彦と大伴武日を補佐として蝦夷を平定したが、その帰途に日本武尊は死んでしまうのである。このメンバーの名前にすべて「武」の字が入っていることを押さえていきたい。
「武」は古代の武将クラスの美称であり、武内宿禰の武も同じ意味を持つと考えられるからだ。
景行天皇五十一年の宴会の際に武内宿禰と稚足彦(のちの成務天皇)が出席していないので天皇が不思議に思い、二人を呼んで問いただしたところ
「非常時に備えて警備をしておりました」と答えたので天皇は大満足。その秋には成務を皇太子にし、武内宿禰を棟梁之臣(大臣)に任命した。
以後、武内宿禰は成務・仲哀・神功・応神・仁徳朝の大臣として国政を執る。『公卿補任』には在官二百四十四年、春秋二百九十五年となっている。まず、三百歳という数字に戸惑うのだが、日本書紀の年代を鵜吞みにするからおかしいのであって、書紀の年代の無理さについては、私がここで論じる必要がないほど周知の事実である。そして人間関係に着目すれば、仁徳天皇の時代まで生きていても全然おかしくはない。なにしろ仁徳天皇の曽祖父は日本武尊であり、その弟が成務天皇である。武内宿禰はこの成務天皇と同年同月同日生まれなのだから、仁徳朝まで生きていてもなんの問題もない。
自分が生まれたときに「ひいじいさん」が生きていることはよくあることだし、それより若いのだから極めて自然である。



■武内宿禰は長寿であった



 



 しかし日本書紀のなかで仁徳天皇が歌を詠んでいる。たまきはる 内の朝臣よ 汝こそは この世の長寿 汝こそはこの世の寿老人、長寿であったことは事実であろう。



 以前、滋賀県にドライブにいった際、琵琶湖のほとりの山に「長寿寺」というお寺があった。
由来も知らないまま階段を登っていくと、そこは武内宿禰伝説のあるお寺だった。私は、何かの縁を感じた。
筆者も武内宿禰の子孫の言い伝えのある家に生まれており、子のお寺の住職さんの名前も武内だった。



■さまざまな長寿伝説



 閑話休題。不老不死は太古よりいかなる権力者ですら手にできなかった永遠のテーマである。その秘密を知るものは当然、不老不死としてこの世にあるはずであるが、古来より噂の域を出ない。日本においては八百比丘尼や常陸坊海尊。または弘法大師・空海も不死と言われる。西洋においてはサン・ジェルマン伯爵や何人かの錬金術師たちにそういう噂がある。勿論、あえて不老不死に自らならないという考え方もある。死なないということは「死ねない」ということであり、結果としては辛いという考え方もあるのだ。しかし、権力者の不老不死や若返りの薬というものに対する執念にはすごいものがある。日本に関係が深いものと言えば、徐福伝説であろう。秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて、徐福に船団と少年少女をあたえて東方の海へ旅立たせたのは有名な話である。この徐福が日本に来た可能性は地理学上、極めて高い。徐福の目指した蓬莱山は富士山であったという説も多いのだ。(はじめ高千穂、安蘇山、富士山の順)。勿論結果としてそうなったということであり、はじめから富士山が目標ではなかったと思われる。



■武内宿禰長寿の秘密



 単純に「薬」を使っての長寿であったということも、ある程度までは考えられる。縄文時代の人々の平均寿命は約三十歳であり、弥生に入って七十歳といえば、当時はかなりの高齢である。中国の最新の医学の知識をもっていれば、その当時としてはかなりの長寿が望めたと考えられる。次に呼吸法がある。現在でも丹呼吸法や気功法、さらにヨガの呼吸法などさまざまな方法があるのだが、日本古来の神道にも、当然ながら呼吸法は存在する。その名を「息吹永世」という。この行法は太古より祭祀に携わる者に伝わってきたもので、それを教授していた家柄が息長氏である。この息長氏から出たのが仲哀天皇皇后となった息長足姫=神功皇后だ。父親の武雄心命も、祭祀王であった武内宿禰がこの行法の奥義を極めていたことも言うまでもない。口伝に拠れば神功皇后より息吹永世之法の最高奥義の伝授もあったらしい。さらに仙道の知識もあった武内宿禰だから「尸解仙」になった可能性もある。事実、武内宿禰が草履だけを残して消え去ってしまったという伝承を持つ神社もある。次にお茶である。最近、ウーロン茶やプーアール茶など中国より渡来のお茶が健康茶としてはやっているが、日本のお茶もなかなか健康にいいらしい。もっとも,武内宿禰が飲んだのは今の緑茶とは別の物である。一部でシャクナゲ茶であるという説があるが、それは陸奥俘囚であった大伴部真麻呂と大伴部仲麻呂を越中国の竹内家の墓守に任命した際に彼らが持ってきたものである(彼らはその後、赤池姓を名乗っていた)。これも身体にはいいらしいが、正統竹内家口伝では別の物である。



■武内宿禰神伝の古武術



 武道をやっている人間は心身の鍛錬を日ごろから心がけていることから長寿の人が多い。竹内家にも武内宿禰神伝の古武術である「竹内神流」が伝わっている。殴る・ケル・投げる・絞める・固めるといったものがあり、美作国の竹内家に伝わった竹内流柔術にも少し似ている。室町時代に分かれた家柄なので少しは関係があるかもしれない。竹内神流は門外不出の武術であるが、これは、殺人技なので当たり前だ。多流派との違いは、宗家である筆者よりも門弟のほうがはるかに強いということであろう(情けない。とほほ)。柔術や剣術のほかに隠形述(忍術)が伝わっているのは、平将門討伐の際に竹内家の先祖の一人、平群清幹が征討副将軍となり、その配下に甲賀忍者の祖・諏訪三郎兼家がいたからだ。室町時代は竹内家当主が近江守で、近江国甲賀郡の甲賀忍者とは密接な関係であった。



■武内宿禰は一人ではない



 



 そろそろ本題に戻ろう。武内宿禰の不老不死伝説の種明かしである。これまでは、できるだけ正史=『日本書紀』を中心に語ってきた。そして、武内宿禰が一人の人物であったとしても、決しておかしくはないということを理解してもらったと思う。その上で、竹内家に伝わる口伝を紹介したい。単刀直入にいおう。武内宿禰は一人ではない。兄弟・父子で受け継いだ称号なのである。そして顔や髭、そして動作が似ていることから同一人物と思われた(というより思わせた)のである。これは弟(実は叔父)の味師内宿禰が讒言をしたときに、影武者(壱岐直の祖・真根子)を利用してからのちに対策として考え出されたものである。このときは盟神探湯(熱湯に手を入れる神判法)によって難を逃れた。竹内家には応神天皇の実の父親は武内宿禰であるという口伝がある。神功皇后の胎内に三年間もいたというのは、暗に仲哀天皇が父親ではないということを匂わせたのだ。応神天皇はそのことを知らないので、もう少しで実の父親を殺すところだったのである。日本書紀の編集を実際に担当したのは、平群子首と中臣大嶋であり、平群子首はこのことを知っていた。



■武内宿禰はフロッピーディスクだ



武内宿禰はある意味で世襲の称号なのだ。一族の中から一人が選ばれ、密かに霊嗣之儀式を施行する。それ以降はその人物が武内宿禰となる。その時、第一世・武内宿禰の霊を自らの中に入れると共に、歴代の武内宿禰の記憶や秘密をすべて受け伝えるのである。もちろん神道や歴史、人間関係や恋愛も含めてだ。そこまでやってこそ同一人物になれるのである。例えるならば、歴代の武内宿禰の肉体というものはフロッピーディスクのようなものである。しかしそのことによって武内宿禰は時間を超越して、現代にも生きていくこととなる。その意味では武内宿禰は不老不死と言える。



■七十三人いる武内宿禰



 武内宿禰は現在までに七十三人いる。そして今のところ、その最後が筆者ということになる。この歴代の中には、天皇になった人物もいる。口伝によれば若子という名の武内宿禰がのちに允恭天皇となり、盟神探湯を行ったとある。この人は、雄略天皇=倭王武の父親だが宋書倭国伝の倭王武の上表文の中になる自ら戦って夷狄を討ったという彼の祖「禰」とは武内宿禰を指しているような気がする。武内宿禰の称号はこの後平群氏に伝わった。途中「紀」姓を名乗ったことがあったが、奈良時代には平群に戻っている。平安末期に最後の女子が清和源氏の義信と結婚してから源氏に伝わるが、戦国時代に季治という人物が息子の長治と絶縁してのちに、娘を越中国にかくまっていた南朝の皇子と結婚をさせた。これ以後は後醍醐源氏となる。江戸時代は武内宿禰の伝承と後南朝小倉宮家の祭祀を受け継いでいた。



■予言革命によるカリスマ



 この武内宿禰を筆者が継ぐこととなるのだが、一族で一人だけを選ぶやり方が変わっている。鹿の骨を焼く「太占」によってあらかじめ将来の武内宿禰の誕生などを予言しておくのだ。後はそれに当てはまる人物を一族の中から捜せばいい。私の場合は一七六七年十二月に帰幽した武内宿禰が「百年後に王政復古を成し遂げたのち、九十九年後に甦る」と予言していたらしい。私は一九六六年十二月生まれなので年月はあう。あとは竹内神道の長老や後南朝の参議で「太占」をして判断したそうだ。このやり方は中国の予言革命と似ているが、うまいやり方だと思う。これならある程度のカリスマ性をはじめから持たせることができるからだ。チベット密教のダライ・ラマの輪廻転生と同じである。現在の日本の天皇のようにはじめから順番が決まっているのも一つの手段であるが、天皇家はもともとは末子相続で長男は祭祀を担当していた。そういった歴史を知っていると逆に納得できないこともあるし、長男が優秀であるとは限らない。まぁ、もめない方法ではある。ローマ法王は枢機卿の満場一致で決まるのだが、変わった人の多い(ごめんなさい)竹内神道の長老に満場一致は無理だろう。アメリカ大統領のように民主的に選ぶべきだというのは、政治の世界ではいいのだが、宗教界では通用しない。神が選んだ人の方が人間の選ぶ人より優先される。



■正統竹内文書について



 この武内宿禰の口伝をまとめたのは、「正統竹内文書」である。これは現在のところ未公開だが、近い将来、その一部を出版する予定である。これに加えて南朝小倉宮家伝承・文書がある。これらを総称して「南朝竹内家文書」とよんでいる。本来ならば門外不出の内容なのだが、一般に「竹内文書」というと茨城の「竹内文書」が有名だ。これが全く違う内容ならば別にかまわないのだが,どうも正統竹内文書を元にして作られた感じがする。



 逆に全く一緒ならば公開する必要がなくていいのだが、茨城の「竹内文書」は古墳時代の人物である武内宿禰が飛行機に乗って世界一周旅行をしたり、系図を見ると親が子供よりあとに生まれている人が何人もいたりしてあまりにも無理がある。そこで、一応プロトタイプ=「正統竹内文書」のダイジェスト版を出しておこうと以前、別冊歴史読本の『「古史古伝」論争』や『古神道・神道の謎を解く』に寄稿したところかなりの反響があった。そこで順次、公開していくことにした。内容に口伝が多いのは、神道関係の記載が多いからである。一巻まるまる神道の行法の名前の横に秘授口伝と書かれている連続のものもあった。文書本体は公開する気はない。書き換えを定期的にやっているのに、「使用している紙は、紙質検査の結果、江戸時代のものだから文書も江戸以降の成立だ」とのたまう人もいるからである(紙質検査をされるまでもなく、うちのは昭和だ)。今後出版・講演により研究者の便宜も図っていきたい(平成十年一月五日に武内宿禰の墓参りも兼ねて越中国二塚の白山神社で講演をする予定)



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